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最近、どう生きようなどとわからないことを考えているのですが。めもめも。
昨日夜横になってから、高校の時のあの知り合いの子はどうなったんだろう、と気になり、起き上がって名前でググってみるというやや気持ち悪いことをしたら、当時医者になるーと言ってた夢を叶えていて、地元の病院に勤めているということがわかったので、昔から勉強が良くできるしそして普通の感覚も併せもっていて尊敬する人ではあったけれど、今でもがんばり続けているというのは、いまでも尊敬するなーと思いました。その子は高校の理系では一番成績がよかったのだけれど、高校三年生のときに志望校をトーダイから地元の大学に変えてしまって、そのときはそれで満足できるの?と私は思ったのだけど、それは、自分の実力を客観的に把握できていて、自分の活躍できる場所にいくということをそのときから知っていた、ということだったのでした。年をとっても未だにそれを知らずにもがき続けている人もいるというのに。鶏口牛後というか、適材適所というか、自らが社会に貢献できる場所を見つけるというのは大切なことです。東京というある程度選抜された人が集まるところでグローバルな一番になれるならそれがよいですが、そこで埋もれるくらいであれば、狭い地域で一番になって活躍あるいは社会貢献するのが、実が多い、とも考えられるかもしれません。挑戦してみなければわからない、というのもありますが、自分の納まるべき場所を判断しそこなうのが一番よろしくない。というので、何歳になってもそれを忘れずにいなければならない。
いつまでがんばればいいんでしょうか。ルノアールは50歳になって大成、あるいは社会的な評価が得られたそうで、それを考えると50まで生きれるとして、50まででしょうか、それとも評価されたとしてもまだがんばりつづけなければならないんでしょうか。結局、死ぬまで、あるいは老後までか。退職したひとに今の仕事を志したのはいつですか、やっていて良かったですか、とか聞きました。学生のころに志して、いままでやっていてよかったと言っていました。素敵な生き方だなあと思う。いい顔していらっしゃるもん、いつも。結局のところ、安寧か名誉か。家庭か仕事か。という死ぬまでに何度もやってくる選択なのではと思う。機会費用をそのときどき考えなければなるまい。いまはどちらを選ぶべきか。どちらに価値を感じるか。それはわからない、わからない。
長い歴史でみるとたいていのことはどうでもよく思える。人の死さえ。ある思想の元に政治を変革しようと血をたくさん流したことがあったかもしれないが、それでどう変わったか。科学の進歩のために努力しても生活の豊かさにはリンクしない。知的好奇心で知ったところでなに。流れに浮かぶうたかたですわよ。即物的な快楽というのも、頭で化学物質たくさんでるーってだけだし。はかないものと知りながら、妥協を重ねてなにかに価値を見いださなければならない、のか。あるいは見いださずとも流れてゆけるのか。

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